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方法論、というと少々堅苦しくてなんだか近寄りがたいものに思えるかもしれないが、実際は
「こう考えたら人生を楽に・楽しく過ごせるだろう」
というひとつの考え方に過ぎない。
「結婚して子供を生む」
「男同士のつるみ・絆を最重視しているわりに、男同士の性愛関係を絶対に否定する」
「自分は〇〇じゃないけど、~~はいいと思う」
普段何気ない言葉・習慣や行動は自分にインプットされた「誰かの」知識や経験に、
無意識のうちに支配されていることには普通は気づけない。
が、少しでもこういったことに疑問を持ったなら、あるいは全く持っていない人にこそ、
この記事で提唱する方法論を知ってほしいと思う。
思った以上に恋愛や性について、ごちゃまぜになっているはず。
目次
愛と性欲は別物である
まず初めに、恋愛と性欲、さらに結婚などの制度的なものはそれぞれ別物である。
なので恋愛対象はA、性欲の対象はB、結婚は男女、というミックス状態は普通にありえる。
これらの概念を5つに分類し、図にしたのが↓のもので、
これをとりあえず「性愛ファイブ・ファクター」と私が名付けた。
「プラトニック・ラブ」という言葉があるように、哲学の世界では精神的な愛と、肉体的ないわゆる「肉欲」は別物ととらえる考え方が古くから存在している。
この性愛ファイブ・ファクターでは愛を役割に対応する性別、性欲を自分の嗜好対象ととらえ、
さらに結婚と繁殖を半ば固定化された「ルール」の要素として、合計で5つの要素から成立するという思考ベースを提唱する。
ちなみに最近ではLGBTQなどという言葉もあるが、こういった分類は個人的には正しくないし、むしろ正しい解釈からは遠ざかっていると感じる。
実際に多様性が存在するのはあくまで「性欲」の部分であって、いちごが好きな人もいればチーズケーキが好きな人もいる。両方好きな人も、両方嫌いな人も、雑食な人もいる。ちょっと変わった人では土を食べる人もいるだろう。
それと同じように、個々人によってバリエーションがあるのがこの「性欲」の部分であると、本方法論では定義している。
1. 社会愛 (社会的承認)
お互いに一緒にいたい、という恋愛感情の内、社会に関係するものが社会愛だ。
社会を構築する動物は数あれど、ここまで高度に「敵対関係」ではなく「協力関係」を築けるのは人間くらいではないだろうか。社会関係の構築は敵対という精神をつねにすり減らす危険から自分を遠ざけ、1から2を生み出すこの上ない建設的なものへと導いてくれる最高のシステム発明だった。
社会関係には、維持と発展が不可欠だ。年老いて死ぬ前に新しい世代と関係を作らなければならない。
社会に承認されることで、自分もその社会の一員として恩恵を享受できる。そして、自分もまた社会のために貢献し働く。
伝統的にそれを担ってきたのは男であり、だからこそ古くはギリシャのパイデラスティアや日本の封建時代にあったような少年愛に始まり、貴族階級同士のつながりであったり師弟関係や宗教幹部、より身近なところでは会社の昇格やスポーツグループなど多くのグループで男同士の関係が強い。
同性愛はもちろん性欲の対象としての意味もあったが、インターネットも民主主義もまだない時代にとって社会的な意義のほうが同等以上に大きかったものと思う。
交友関係であっても互いを承認しあっているのは男同士の友達には多いが、女同士となると後述の家庭愛が関わってくるので、大抵は互いの社会的承認という部分では当てはまらないものになりがちである。
逆に言うと社会愛では「外」とのつながりを重視する。そのため後述の家族愛とは異なり、「内」……つまり自分の身内は対象としていない。よく「仕事ばかり重視して離婚する父親」の像がドラマ等でも描かれがちだが、社会愛は「外」の関係なので必然ともいえる。
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2. 家族愛 (家=なわばりの保護)
お互いに一緒にいたい、という恋愛感情の内、家庭や家族に関係するものが家族愛だ。
家族愛は上記の社会愛に対して、むしろ本能に近い原始的な関係といえる。家族愛では身内の保護監督を役割とする。そのため、伝統的には母親(女)がその役割を担ってきた。
社会愛が他人との協力関係を結ぶのに対して、家族愛は自らの子供やパートナーなど近しい血縁者、同類との関係を最重視する。
そのため身内ではない他者は基本的には「家=なわばり」を脅かす敵であり、他者に対しては敵対する態度を取る。
「女の敵は女」という言葉があるが、「家」を守るための意識が生まれながらに備わっているため、「家」同士の敵対はごく自然ともいえる。
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ちなみに恋愛については、カップルの組み合わせが男女でも同性でも、役割性というのはほぼ男~女のどこかに位置する。この場合の男・女という分類は、主にその役割が求められる便宜上の分類であって、必ずしもその役割を果たすのが男か女か決まっていなくともOKである。
例えばDINKSのようなつながりなら子供はいないから、カップルの双方が社会的承認欲求=社会愛=男性愛で繋がっていてもかまわない。その場合はお互いは家庭的な付き合いというよりも、ビジネスパートナーや師弟、兄弟関係のようなものに近い。
女同士のカップルなら片方が社会愛(男)の役割を担い、他方が家族愛(女)の役割を担う、というケースもある。
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3. 性欲
不可抗力の身体的反応であり、本来男女の性別とは関係のない部分である。
繁殖行為が後述するように男女の組み合わせなので性欲もそうだと思い込みがちであるが、
実際は性欲自体はプログラミングされた、工場のラインのように機械的・定期的に訪れるものでしかない。
性欲はあくまで繁殖のためのきっかけでしかなく、繁殖時以外は発散してあげる必要があるだけだ。
一般に思い込まれている認識と違い性欲解消時の対象は本来何でもよく、冒頭述べたように千差万別のものである。
ここが一般にLGBTQや異性愛と言われる箇所で、「性的嗜好」の名の通り「嗜好」の方向性を指すだけである。
三大性欲として名高い「食欲」「性欲」「睡眠欲」だが、食の好みも睡眠のスタイルも異なるのは当たり前だ。
相手が異性だろうと同性だろうと、子供、動物、ドラゴン、モノ……対象が何であっても、(危害を加えないという制約こそあれど) 本来は自由である。
たまに性的嗜好の対象を指して「シュミ(趣味)」とも言われるのは、それが実に人によって多種多様であることの裏返しともいえる。
(だが大抵の人はそれが恋愛や結婚とは異なる指標である、ということを認識できていないのだろう)
女に興奮するからといって恋愛対象まで必ず女でなくてはならないわけではないし、
異性愛者であっても「男だけどこの人だけは(社会愛対象として or 性的嗜好の対象として)好き」というのもある。
恋愛、性欲、制度を分けて考えることが自分と相手の「好き」を解明する第一歩なのである。
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4. 繁殖 (自然法則)
男女間のルールのうち、自然の摂理が繁殖である。
こちらは身体性別が唯一限定されているものと言っても過言ではない。「種の繁栄」であり、生物学的カラクリとして用意された仕組みである。
繁殖システムにより、次代にバトンタッチし「種として生き永らえる」ことができる。
近年は人工授精もあり男女でなくともこの制約がない諸外国 (アメリカ、カナダ、ドイツ、南米など) も出てきてはいるものの、費用や手続き上の課題は多いので普及にはまだ遠い。
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5. 結婚 (人工制度)
男女間のルールのうち、人工的に設けられたものが結婚である。
当たり前だが、人間以外の動物は結婚しない。
昨今同性婚などが取り沙汰されているが、そもそも結婚という「儀式」は人間が勝手に作ったものだ。
繁殖とはコインの裏表のような存在で、繁殖が「種の繁栄」を目的とするなら、結婚は「家の繁栄」が目的といえる。
もともと別々である社会(男)と家族(女)をつなぎ、家が社会的地位を持つことで家の存続可能性を上げ、結果的に生き永らえることができる。
女は社会には入れないが、男も家庭には入れない。そんな状況下で社会の発展と家の存続を継続的に両立させる仕組みが「結婚」だった、ということである。
💡 結婚という呪縛
問題はこの結婚という仕組みが呪縛になってしまったことである。
最初はこれで非常にうまく回っていたのだろう。あくまで形式的なものだったので、別に既婚者の男が男と関係を持とうが、他の女と関係を持とうが、(嫉妬はしても)家自体は保たれるし、社会関係も問題ない。
だが時代が変わり、「恋愛対象=性欲発散先=繁殖相手=結婚相手という誤った認識」が広まるにつれ、
「結婚」しないと社会関係でも不利になり、同時に「結婚」すると恋愛や性欲の解消に不便になる
というとても困った制度になってしまった。
そのうち結婚していることが前提の各種幇助制度も作られるようになり、その結果が同性婚制度という、
本来家の存続と社会発展を同時成立させるための仕組みがなぜか同性間にも考慮されるようになった本末転倒ともいえる事態になっている。
この場合、本来国がすべきだったのは人工授精の規制緩和や特別養子縁組制度の改革(いずれも男女の組み合わせが前提)と、各種幇助・手当における結婚前提の条件をなくすことであって、このようなやり方では都度それぞれの制度をアップデートしていかなくてはならないし、また新しい概念が出てきてそれを認める風潮になったときも新しい制度を作らなくてはならなくなる。
本当は真っ先に変えなくてはならないのは「恋愛対象=性欲発散先=繁殖相手=結婚相手という誤った認識」のほうである。
「0か1か」ではなく、グラデーションである
ファイブ・ファクターでは5つに分類したが、もう一つ重要な考え方がある。
それは「白黒」「0か1か」のようにどちらか片方、という判断はできないということだ。
たとえばある男を好きになったケースでも、男性的な社会的つながり・社会的な強さに惹かれたとしても、同時に女性的な庇護の面に惹かれる、といったケースは十分に想定される。
また、求める愛も男と女の間のどこか、というだけではなくその強さも違う。
友達のように比較的軽めの感情もあれば、それこそ一生を添い遂げたいと思うくらいの気持ちまである。
そしてそれは目に見えないし、それらの境目など明確に存在しない。
つまり「知人」レベルから「生涯伴侶」レベルまでリニアに変化する。やはりグラデーションなのだ。
さらに性欲となるともっと複雑で、男女間0~100のどこかといった1次元的な指標ではなく、
あらゆる指標が混在し、しかも同時に存在しうるという一体いくつ軸と次元を用意すれば事足りるのか全くわからない状況だ。
上記の男のケースでも、相手の女性的な顔に惹かれつつも男性的な体に惹かれたのかもしれないし、普通は女にしか性欲面では興味がなくとも、特定の服装等に限っては男女問わず対象になるかもしれない。
現代社会では生物学上の男女: 0か1の2値的判断で考えている人が多いのかもしれないが、実際はどちらかというとグラデーションのように分布している、という見方のほうが実態に沿っている。
恋愛や性欲までもが男女どちらかでなくてはならない、という考え方は自分を悪く支配してしまう上、ひいてはその考えを受けた相手をも支配してしまう。
0か1、白黒はっきりつけるべきという考え方を捨て、性や愛はグラデーションのようにつながっているのだと認識することが重要である。
恋愛、性欲、制度を分けて考えることが自分と相手の「好き」を解明する第一歩なのである。
自分によって変わる
ファイブ・ファクターを認識した後は、自分が何に惹かれているかを知るのが重要だ。
たとえば男が女に惹かれたと言っても、なぜ惹かれたのかは意外と曖昧になりがちだ (定番の「どこが好き?」という質問はとても重要だ)。
家族愛の場合はいわゆる「母性」を求めた結果で、家庭を庇護してくれる対象として男は女を見ている。
一方性欲としての場合は容姿や服装、しぐさなど性欲を刺激する要素があった場合に惹かれる。
もし性欲だった場合は、性欲が解消されると一気に冷めることになる。
これは自分が解消した場合もそうだが、相手に性的魅力がなくなったことで消失する場合もある。
性欲を理由にパートナーを組むと失敗しやすいのはこのためだ。
先述したように関係構築の動機は「社会愛」か「家族愛」の間どこかにしかない。
「どこが好き?」で愛ではなく性欲的なところを答えられたら、残念だが二人は続かないだろう。
まとめ
まとめると、性愛にまつわる要素は以下のように考えられる。
- 恋愛、性欲、制度から5つの要素――「ファイブ・ファクター」に分類できる。
- 社会愛 (男性愛)
- 家族愛 (女性愛)
- 性欲
- 繁殖 (自然法則)
- 結婚 (人工制度)
- 恋愛、性欲においてさじ加減はグラデーションのように分布しており、男女どちらかに二分は必ずしもできない。
この方法論が誰かの助けになれば幸いである。
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